薪窯で焼成した作品の表面に現れる緑、青、紫。それら様々な色を伊賀焼独特の焦げがより一層引き立たせる。南出学の急須はそんな伊賀焼の醍醐味を存分に表現している。
電気窯やガス窯はほぼ失敗の無い安定した焼成の方法である一方で、薪窯は投げ込んだ薪が当たって作品が壊れたり、温度の調整を間違えるとゆがんだり、作品同士がくっついたりと不安定な要素が多く常に失敗と隣り合わせの方法である。
たとえ失敗しなかったとしても理想的な焼きに仕上がるかどうかは運を天に任せるしかない。
薪窯らしさを最も表現できるのは大きな窯の中でほんの一部にすぎず、多くの陶芸作家はそのベストポジションに花器や壺を置くことが多い。
さらに急須の様に蓋のあるものは溶けた灰で胴体とくっつき離れなくなるリスクが高く、灰がかかればかかるほど薪窯特有な色合いが出て美しく仕上がるが、売り物にならない可能性も増す。
そのリスクを顧みず薪窯の美の最高峰を急須で表現するのは、伊賀では南出学くらいで、日本全体で見ても決して多くはないのではないだろうか?
「伊賀焼の焦げにずっと憧れていました。鮮やかな色と黒い焦げのバランス。人工ではできない火の神様のみがなせる業。それを急須の上で表現できるか試したかったんです」
現在60歳(2018年)。
40代半ばまで学校の教師をしていたという異色の経歴の持ち主である。
1958年鳥取県三朝町生まれ。
思春期の頃から人と接するのが苦手だったので、スポーツや絵を描くことに没頭した。
大学は芸術関係かスポーツに進むか迷ったが、棒高跳びで県優勝したこともあり体育系の学部に進むことに。
大学三年生の時自閉症やダウン症の子供と出会い、それがきっかけで障害者の通う学校の先生になることを目指す。
「人と接するのが苦手な子供たちの姿が自分と重なったんです。そんな子たちが自分にだんだんと心を開いてくれた経験がとても感動的でした。」と支援学校の教師になったきっかけを振り返る。
26歳の時、三重県伊賀市の学校に赴任したとき地元の窯業試験場で子供達に焼き物を教えてくれるよう頼まれた。美術の教師になる過程で焼き物は少し学んだことがあったもののほぼ初めての経験。しかし子供たちに教えるうちに焼き物の楽しみにはまっていった。
34歳の時、教師をしながら伊賀焼陶芸家の新佳三氏に学び、そして44歳から週末を利用し急須で有名な三重県の万古焼の清水醉月氏、舘正規氏に3年間師事する。
「うまく説明できませんが急須に惹かれました。そして大好きな急須を地元の伊賀焼で造ろうと決心しました。」
45歳の時に早期退職勧奨制度があることを知り、迷わず教師を退職。
「その先のリスクを考えずすぐに辞めました。急須との出会いがなければそこまでしていなかったと思います。教師としての自分より、先のはっきりと見えない急須を選びました。こんな自由な生き方ができるのもすべて女房に感謝です。」
毎朝2匹の山羊と散歩に出かける南出は近所の子供の間では人気者。
「山羊はぼくの癒しなんですよ」
1958年 鳥取県三朝町に生まれる
1982年 福岡県立福岡聴覚支援学校勤務
1983年 赤目町立赤目小学校勤務
1984年 伊賀市立阿山中学校勤務
1989年 三重大学教育学部付属特別支援学校勤務
1992年 新圭三氏に師事
1993年 伊賀市立霊峰中学校勤務
1996年 三重県立特別支援学校伊賀つばさ学園勤務
1998年 いちょう窯(穴窯)築窯
2002年 清水醉月柴、舘正規氏に師事
2004年 教職を辞し独立
入賞 創造展、三重やきもの展、萬古陶磁器コンペ
入選 県展、三重やきもの展、萬古陶磁器コンペ
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