商品概要
商品名 | 常滑焼 篆刻急須 |
作家 | 小西洋平 |
生産地 | 愛知県常滑市 |
サイズ | 高 8.5cm * 長 9.8cm * 直径 6.2cm |
容量 | 約 140ml |
素材 | 陶器 |
備考 | 桐箱 |
ご注意点
表示の容量は【満注内容量】です。
水を縁までギリギリ満タンに入れた場合の内容量を示しています(蓋のある場合は蓋を受けるところまで)。
実際に使用される場合のお湯の量は少なくなります。
これほどまでに急須のあらゆる可能性を追求し、挑戦し続けてきた人はかつていたであろうか?
現代に生きる急須職人として頂点に君臨するのは間違えなく小西洋平だ。
2008年、急須の街、常滑市の指定無形文化財に指定される。
小西は形、技法、材料に至るまでさまざまなものを研究し、全てにおいて最高のものを作り続けてきた。
人を驚かせる個性的なものも多いが、一見シンプルな急須であっても明らかに他とは異なる品格を感じとることができるのは、全てを極めた職人の確かな技が光るからであろう。
1941年常滑生まれ。
父は練込手法を日本で初めて使ったことで有名な小西友仙。
練込とは複数の異なった色の土を混ぜることで、鮮やかな色合いに焼き上げる手法である。
小学生の頃から煉込の粘土を練ったり、ろくろの上で作品を削るなど、父の仕事を手伝っていた。
そんな小西が地元の窯業高等学校に進学し、この世界に入るのは自然な流れであった。
一般的には長男が父の跡を継ぎ襲名するのだが、小西洋平は襲名せずあえて独自の道を行くことを決意。かわりに弟が襲名し、2代目小西友仙となる。
「わしは変わり者だからのう(笑)」。と小西は笑う。
高校卒業後、朱泥、煉り込の急須を作り始めるが、すぐにオブジェ、花瓶、香炉なども制作するようになり、さまざまな美術公募展覧会に出品した。当時常滑の作家はこういったところに作品を出すことはまれであり、しかもそれが急須以外であればなおさらのことであったが、小西の作品は高く評価され全国の有名百貨店でも個展を開くことになる。
本人が“急須こそがわがふるさとー”と述べているように、やはり急須には特別な思い入れがある。
“常滑といえば朱泥”といわれるほど有名であるが、「みんながやっているものはおもしろくない」と、小西は次々とあたらしい技法に挑戦していく。ある1つの技法を主に用いて作品を作る作家も多い中,小西は当時より一つの技法に留まることはせず、常に新しい土、技法に挑戦し続け、それぞれを最高レベルにまで高めてきた。
例えば、今ではよく見られるようになった技法の黒い燻急須は、朱泥を2回焼成すると黒くなる性質を利用したものだが、黒燻急須は小西が常滑で初めて作ったものだ。
焼成する穴窯の中で薪の灰が降って偶発的な肌合いを見せる窯変も常滑では小西が第一人者だ。一般的にはガス窯や電気窯を使用することが多い常滑において、早くから穴釜を使用していた。
「ガス窯、電気窯のほうが安定している。穴窯は失敗も多くできるからだからみなやりたがらないんですよ。当時穴窯をつかっていたのは、私と三代目常山くらいでした。」
最近の作品に多く登場する彫も専門の彫師の如くさらりとやってのける。
「20代前半に彫の作品はさんざん作ったからね」、と小西が極めた技は枚挙に遑がない。
このように時代によって小西が作る作品は大きく変化する。
「同じものを作ることこそが、私にとってはまさに至難の業」と本人が言うとおり、一つ一つの作品がまさに唯一無二の存在である。
正確に同じものを反復的に作り続ける人間を職人と呼び、常に違う新しいものを創造する人間を作家と呼ぶのであれば、小西洋平こそまさに作家と呼ぶのにふさわしいであろう。これを小西に問うと、
「陶芸作家?わしは作家ではない。わしは職人じゃ。ただの陶工じゃ。」と否定する。
作家と呼ばれることを否定し、自らを職人と呼ぶその真意はなんであろうか。
小西洋平はこれまで常にストイックな姿勢で、作品作りの奥深くまで突き詰めてきた。
これはあくまでも筆者の想像にすぎないが、数年の経験しか持たないのに何かの展覧会で入選しただけで“作家”を名乗る今の若い人に対して、本来の有るべき姿を示しているのかもしれない。
“作家”という名称が薄っぺらいものであるならば、自分はあえて作家でなく、“職人”であると。
しかし、小西はこう付け加えた「職人の前に“感性”を付け加えてね。わしは感性のある“職人”なんじゃよ」
“わしは変わり者じゃ”というのが、小西は口癖のように何度も繰り返した。
その言葉通り常に時代の一歩先を行く“常識外れ”のものを作ってきた。
急須の世界に限らず何事でもそうであるように、これまでの常識を破り新しいことを最初にやる人間は常に“変わりもの”と呼ばれる。
しかし、それが評価され広く受け入れられるとそれが“新しい常識”となる。小西洋平は“変人”と自称しながら、常に常識を作り替えてきた職人であり、これからもそうであり続けるだろう。